行動経済学、ナッジで取り組む「新しい生活様式」

5月7日、厚生労働省は新型コロナウイルスを想定した「新しい生活様式」を公表した[1]。 感染防止の3つの基本として、(1)身体的距離の確保(2)マスクの着用(3)手洗いを徹底するよう要請している。「3密」の回避や咳エチケットの徹底、こまめな換気などの対策を継続しつつ、日常生活においても「買い物は1人または少人数ですいた時間に」「筋トレやヨガは自宅で動画を活用」など、「新しい生活様式」の実践が国民一人ひとりに求められている。


こうしたなか、社会にとって望ましい行動変容を促す取り組みとして、行動経済学や「ナッジ(nudge)」が用いられるようになっている。ナッジは「そっと後押しする、肘で軽く突く」という意味で、2017年にノーベル経済学賞を受賞したシカゴ大学のリチャード・セイラー教授は、「選択を禁じることも、経済的なインセンティブを大きく変えることもなく、人々の行動を予測可能な形で変える選択アーキテクチャーのあらゆる要素[2]」と定義している。日本においても、環境省が事務局を務める日本版ナッジ・ユニット(BEST : Behavioral Sciences Team)などを中心に、ナッジを用いた取り組みが活発になってきている。


京都府の宇治市役所[3]では、施設の出入り口に消毒液を設置、消毒液の方向に人々を誘導するために黄色い矢印(イエローテープ)を床に貼り付ける取り組みを実施した。この介入の前後で出入り口を通過した人数と消毒した人数を比べたところ、介入後に消毒率は9.7%改善していたそうだ。矢印という視覚的なナッジによって、人々が無意識に誘導されていることがうかがえる。


同様に宇治市役所では、手洗いのナッジとして『となりの人は石鹸で手を洗っていますか』 『石鹸手洗いが「自分」と「次の人」を守ります』というメッセージをトイレに掲示している。人々は「他人の目を気にして利他的にふるまう」利他性があり、ナッジを用いてこれを喚起させることで、石鹸を使った手洗いを促しているのである。このナッジによって石鹸の使用量は増加しているようで、2日に1回程度の石鹸の補充が、今では半日に1回は必要になっているそうだ。


この手洗いナッジは、イギリスの高速道路のサービスエリアのトイレで行われた実験[4]で得られた結果が基になっている。この実験では、掲示するメッセージごとの石鹸の使用量が、コントロールグループ(何も掲示しない)と比較しどのように変化したか、男女併せて20万人近くのデータを用いて分析した。その結果、男性では「となりの人は石鹸で手を洗っていますか」、女性は「水は除菌しません、石鹸が効果的です」が最も効果的であり、それぞれのメッセージはコントロールグループと比べて、11%〜12%ほど石鹸の使用率が増加していた。利他性への訴えや石鹸を使わないことへのリスクを警告するメッセージが、「善良な市民」に手洗いを促す取り組みとして効果的であることを示唆している。


新型コロナウイルスとの闘いが長期化するなか、行動経済学、ナッジの知見を取り込むことで、「新しい生活様式」に適応することができるのではないだろうかと感じる。


[1]https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000121431_newlifestyle.html

[2]リチャード・セイラー、キャス・サンスティーン著、遠藤真美訳「実践 行動経済学 ―健康、富、幸福への聡明な選択」日経BP社
[3]http://www.env.go.jp/earth/ondanka/nudge/renrakukai16/mat_02.pdf
[4]Judah et al. (2009) "Experimental pretesting of hand-washing interventions in a natural setting", American Journal of Public Health, Vol.99, No.S2, pp.S405-S411.

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